1. HOME
  2. ニュース
  3. J.ウィルソンインタビュー(前編)

J.ウィルソンインタビュー(前編)

エディ・ウォーレンの再来? それとも第2のチャド・リード?オーストラリアの覇者ジェイ・ウィルソンが語る、南半球モトクロス事情

TEXT/ 浦島慎太郎  PHOTO/モトクロnet 人名Jay Wilsonジェイ・ウィルソン リード全日本モトクロスMFJ-GP、決勝レースを翌日に控えたジェイ・ウィルソンに向き合った。オーストラリアMX・SXチャンピオンのウィルソンは、何を求めて来日し、どこへ向かおうとしているのか? プロフィール ジェイ・ウィルソン オーストラリア出身1994年7月19日生まれ 2009年FIMジュニアワールド85チャンピオン 2013年オーストラリアSXDチャンピオン 2013年ニュージーランドSX2チャンピオン 2014年ニュージーランドSX2チャンピオン 2015年オーストラリアMX2チャンピオン 2015年ニュージーランドMX2チャンピオン 2018年オーストラリアSX2チャンピオン 2021年全日本モトクロスMFJ-GP完全優勝 Q.今回の来日はどのような経緯で実現したのですか?
A.昨年、コータさん(鳥谷部晃太)がオーストラリアに来て、ヤマルーブ・ヤマハRTのチームメイトになり、ほとんど毎日一緒に練習したり、週末はレースに出たりしていたんだ。僕は外国で暮らす苦労を体験しているので、コータさんのオーストラリア滞在がベストなものになるように、精一杯ケアしてきたつもりだ。そうして日本とオーストラリアの交流が深まったことで、今回はヤマハからのお礼みたいな主旨だと思うんだけど、SUGOのMFJ-GPという格式の高いレースに招待されたんだ。 Q. SUGOのことを知っていたんですか?
A. 僕はグレンイネスという人口5,000人程度の田舎町の出身なんだけど、近所に住んでいたのがエディ・ウォーレン(1985年AMAスーパークロス125イーストチャンピオン。後にアメリカからオーストラリアに移住。1992年全日本モトクロス250チャンピオン)。子供の頃、エディから全日本に参戦したときのいろんなエピソードを聞かされてきたので、いつか自分も日本で走ってみたいと夢見ていたんだ。以前から日本の文化にも興味を持っていたし、ヤマハ本社からのオファーによって夢が実現したので、今はとてもハッピーだよ。 Q. ウォーレンと知り合いだったとは、何だか縁を感じますね。日本の文化に対する興味というと? A. オーストラリアで外食するときも、ジャパニーズレストランを選ぶことが多かったし、実は2年前に日本に来たことがあるんだよ。ワイフと娘を連れて、10日間の観光旅行。僕らにとって日本は訪れてみたい国ナンバーワンで、東京に6日、京都に4日滞在してあちこち探検した。渋谷ステーション界隈は、割と詳しくなったよ。京都や大阪は。ユーさん(平田優)が案内してくれた。彼とはニュージーランドのジョシュ・コピンズの家で合宿して以来の付き合いで、今でもSNSでメッセージを交換する間柄なんだよ。僕は日本語ができないし、ユーさんもコータさんも英語がアレなので、込み入った話はしていないけどね。それから現在JCR(ジョシュ・コピンズ・レーシング)でチーフメカを務めるナベさん(渡辺豪)は、すごく優秀で頼りになるので、ずっと前から親しくしているんだ。 Q. 昨年から今年にかけて全世界同様、オーストラリアでもCOVID-19パンデミックの影響を受けていますね? A. そうなんだよ。2020年はオーストラリア選手権がキャンセル、2021年は3戦消化した段階でチャンピオンシップが成立してしまった。州境をまたぐ移動が禁止されたことで、レース活動は州内に限定された。日本から来たカワサキのライダー(横山遥希)も、拠点のビクトリア州から出られず、せっかくの国際交流の機会が妨げられているけれど、こればかりはどうしようもない。今さらだけど、2020年に渡米してAMAスーパークロス250ウエストに参戦できたことが、奇跡のように思えてならない。 Q. アナハイム2とサンディエゴで11位に入りましたね? A. アナハイムは誰もが憧れる目的地だし、あそこで走れたことがうれしかった。コロナにあるヤマハのテストコースで練習させてもらったり、ライダーやスタッフと交流を深めることもできた。サンディエゴは自分にとって最後のラウンドだったんだけれど、高層ビルから見下ろせるオープンエアスタジアムに友人や親戚が応援に来てくれて、とても楽しいレースだったよ。リザルト的にはもっと上位を狙えたはずなんだけど、実は開幕戦前に練習中のクラッシュで脳震盪を起こしてしまったんだ。それで第2戦セントルイスだけは遠いので出場を諦め、しばらくカリフォルニアで大人しくしていた。数年前に弟のディランが同じようなクラッシュで長期入院していたこともあって、脳震盪に対してはとてもナーバスになっていたんだ。いずれにしても、とても収穫の多いアメリカ遠征だった。 Q. あなたの名前が世界に知られるようになったのは、2009年のジュニアワールドで85チャンピオンに輝いたことがきっかけだった記憶していますが…。
A. その年はニュージーランドのタウポで開催された。85クラスにはディラン・フェランディス、ジェレミー・シーワー、サムエレ・ベルナルディーニといったヨーロピアンが出場していたんだけれど、ラッキーなことに僕は彼らのすごさを知らなかった。オーストラリアやニュージーランドの同年代のライダーたちが集まるレース…みたいな認識だったので、プレッシャーもそれほど感じることなく、マディだったこともあって勝っちゃったんだ(1位/3位)。コートニー・ダンカンも出ていたかな。125クラスではイーライ・トマックがオーバーオール。当時の僕は15歳で、平日は学校でフットボール、週末にはモトクロスという少年だったけれど、ジュニアワールドチャンピオンになったことでモトクロス界で有名になり、プロとしてやっていく決心というか、夢がおぼろげではなくはっきりと見えてきた気がする。いま思えば、人生のターニングポイントになったレースだった。 Q. それ以降のレース活動は順調でしたか? A. ジュニア最後のシーズンだった2010年は、手首のケガなどがあって冴えなかったけれど、2011年のプロデビュー以降はリザルトを残せるようになり、2013年にはオーストラリア選手権SXD(D=ディベロップメント=育成クラス)チャンピオンになった。ここまではアンダー19歳だったけれど、2014年からは年齢無制限のMX2・SX2クラスに上がった。2015年にはオーストラリアMX2チャンピオンになって、MXoN(モトクロス・オブ・ネイションズ)の代表にも選ばれた。 Q. フランスのエルネーですね? A. ところがレース直前の火曜日に、練習中のクラッシュで脇腹を縫うほどのケガをしてしまい、代わりにルーク・クラウトが緊急招集される事態になった。僕は出走を断念したけれど、現地に留まってMXoNを見学した。各国を代表するトップライダーたちが、威信をかけて走る団体戦。エルネーの会場には世界中から観客が集い、公式発表で6万人だったかな…。とにかくすごい熱気が谷間に渦巻いていた。MXoNのオーストラリア代表にセレクトされたのはこのときしかなかったけれど、またチャンスがあれば祖国のために出場したいと思っている。 Q. あなたのレースキャリアを振り返ると、浮き沈みが激しいように見えますが、何か事情があるのでしょうか?
A. クラッシュかな…。MXoNのときもそうだったけれど、MX1(450)にスイッチした2016年は、国内選手権の開幕前に手首を骨折。ずっと苦戦続きで最終的に手術をしたんだけれど、忘れてしまいたいシーズンだ。でもアプローチを変える気はないし、一途にやってきた結果が今の自分。何も後悔することはない。言われるように、ハイズ&ローズ(浮き沈み)があったことは確かだろう。でもそれは誰にでもあることで、アスリートじゃない人の日常生活の中にもハイズ&ローズはある。そういった試練を乗り越えて、人は強くなるものだと思うよ。 Q. 2017年には世界選手権にチャレンジしましたね? A. 手首の骨折で棒に振ったシーズンの直後だったので、実はどこからも契約の話が来なかったんだ。そこでイギリスに渡ってアリーナクロスに出ていたら、MXGP(MX2クラス)のシートに空きができたので乗ってみないかというチャンスが訪れた。GPシーズンを全うするレベルまでの準備はできていなかったのに、MX2の年齢制限(23歳)に間に合う最後のシーズンだったので、無理でもチャレンジしてみたくなったんだ。最後のアリーナクロスを走った翌々日に、ロンドンからドーハに飛んで週末にGPデビュー。その後も何戦か出場したけれど、ちょうどその頃に娘が生まれたこともあって、中途半端なGP参戦を中断してオーストラリアに帰ることにした。ポイントを獲得できたのは、インドネシアGPでの1点だけだった。 Q. 大変なシーズンだったようですが、家族が増えたのはポジティブな出来事でしたね。 A. そうなんだ。GP参戦中は精神的にどん底だったけれど、さっきも話題になったように、沈んだら次は浮くしかない。浮くように泳ぐしかない。そうやって家族と一緒に頑張った結果、翌2018年にオーストラリアSX2チャンピオンになれたんだ。2013年のタイトルはSXDクラスだけど、これはSX2だから喜びも格別だった。 Q. SX2は250のクラスですが、250に乗り続けているのは2016年の挫折があったからですか?
A. いや、単に450に乗るオファーがないだけだよ。450で成功するには、相応のマシンとチーム態勢がないと無理。プライベートで勝てるクラスではない。家族を養うためには収入が必要だし、それが得られるのがたまたま250だったというだけ。450が嫌いなわけじゃないんだ。YZ450Fも持っていて、今回の来日前にも練習で乗っていたくらいだよ。 Q. オーストラリア選手権のアウトドアナショナルとスーパークロスのチャンピオンになりましたが、どちらのタイトルが大事ですか? A. どっちも大事だよ。モトクロスでもスーパークロスでもチャンピオンになったので、自分はオールラウンドなライダーだと思う。ひとことで表現するなら、モトクロスはワイドオープンに攻めて我慢する、スーパークロスはテクニックを駆使してダンスするようなイメージかな。プロになった当時、オーストラリアのスーパークロスはそんなに盛んではなかったけど、最近はブームになってきている。好きなカテゴリーとしては、アウトドアよりスーパークロスの方かな。ケビン・ウィンダムに憧れていたんだ。 Q. 面白いですね。あなたが慕うウォーレンもウィンダムもスムーズなライダーなのに、あなたはアグレッシブ全開タイプ…。 A. 意外な指摘だね。オーバーレブなのは自分の本来のスタイル。でもプロになってからは、ジョシュに教わりながら成長してきた。450に合った乗り方も身に付けているし、機会があればすぐにステップアップできる。2015年にプライベートでチャンピオンになったときも、ジョシュは僕を信じてサポートしてくれた。最も影響を受けた人だ。 Q. ところで、MFJ-GPの予選を走り終えた段階(土曜夕方取材)ですが、日本のモトクロスについてどう思いますか? A. 今年オーストラリアでは全戦開催できなかったのに、6戦もある日本のことがうらやましい。フェデレーションやプロモーターの献身的な努力の賜物だと思う。今日のプラクティスではスロットルワークがちょっと雑だったけれど、予選レースでは反省してもう少しスムーズに走れたので、トップフィニッシュにつながった。プレッシャーが肩から抜けて、ホッとしているところだよ。 Q. SUGOのコースレイアウトはどうですか? A. とてもいいトラックデザインだ。オフキャンバーが多くてテクニカル。先週は雨が多くてマディだったけれど、今はハードベースでベストコンディションになった。SUGOを走ってみて連想したのは、オーストラリア選手権が行われるトゥーンバというコースに似ていること。木々に囲まれたアップ&ダウンのコースということで、菅生とは共通点がある。しかも忘れられない思い出があって、MX2チャンピオンになった2015年は、なかなかオーバーオールが獲れなくて、終盤戦のトゥーンバでシーズン初優勝をゲットしたんだ。 Q. だとすると、勝谷武史と対戦していませんか? A. そう、そうだよ! オーストラリアではタケシのことをタカと呼ぶんだけど、あのときのトゥーンバではタカが1位/3位、僕が3位/1位のタイブレークで勝った。タカはベテランで僕は若かった。彼をリスペクトしていたし、スターティングゲートが倒れた後は必死にバトッたよ。タカはスムーズ、僕はアグレッシブで全然違うタイプ。もう少し冷静になった方がいいことはわかっているんだけど、レースが始まると熱くなってしまうんだ。開けすぎてしまう傾向があることは確かだよ。 後編につづく

ニュース

ニュース一覧